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NY本社にある司のオフィスの横に設えられた秘書室で、菱沼は19時を過ぎた頃から何度も腕時計や壁掛けの時計を気にしていた。
そこへ森川から出発の連絡が入った。
どうやら滞りなく準備が整ったようだ。
これならちょうど20時に間に合う。
ホッと息を吐き出した菱沼は内線を取り、司の部屋をコールした。


『なんだ。』

「副社長、今夜も長丁場ですから、20時から休憩を取りましょう。」

『いらん。』


強く受話器を置く音と共に、通話は切られた。
今日の司は午後から寡黙だった。
普段も仕事モードに切り替えれば無駄口などたたく男ではないが、今日は特に偀とのミーティングから戻ってから厳しい顔をしていた。

総帥に何か言われた?
数字のこと?
新しい買収先のこととか?
それとも奥様のこと?

考えているうちに受付からつくし一行が通過したとの連絡が来た。
つくしはすでにエレベーターに乗り、上昇している。
マズイ…

菱沼は今度は司の部屋をノックした。
何とか仕事を切りのいいところで止めさせなければ。
オフィスでは司がジャケットを脱いでカフスをまくり、書類と画面に忙しなく視線を行き来させていた。


「なんだ!」

「副社長、休憩をとれば効率も上がります。とにかく切りのいいところで、」

「いらねぇっつったらいらねぇんだよ!! 出て行け!!」


その時、菱沼の背後で「司…?」と呟く声が聞こえた。
つくしたちは高速エレベーターによって、早くもここまで到着したのだ。
しまった!と思った菱沼は司のオフィスのドアを開けたままゆっくり振り返った。

そこには森川と岡村を従え、SP2人に大きな保温ボックスを持たせたつくしが立っていた。
「あ…」と言葉を発しようとした時、つくしは唇に立てた人差し指を当て、なにも言わないように菱沼に示した。
そしてゼスチャーで保温ボックスを空いたデスクに置くようにSPに指示を出すと、菱沼に微笑み、背を向けた。


「菱沼、どうした? 早く出て行け!」


困惑した菱沼はつくしの背中と司の顔を交互に見、そして「奥様が…」とかすかに告げた。


「つくしが? つくしがどうした?」

「あの、今、いらっしゃって、」

「なに!?」


司は勢いよく立ち上がり、菱沼を押し除けてオフィスを飛び出した。
駆けながらエレベーターホールまで行くと、最後尾に付き従っているSPが今まさにエレベーターに乗り込むところだった。


「つくしっ!」


司の声が聞こえ、閉じかけたドアがまた開き始めた。
追いついた司が両手でそのドアを掴み、緩慢な動きが待てないとばかりに左右に押し広げた。


「つくし、帰るな!」

「司…忙しいのにごめんなさい。マンションで待ってるから、ドアから手を離して。」

「いいんだ、会いたかった。オフィスに戻ってくれ。」


今はもうSPのひとりが『開』のボタンを押していて、森川も岡村もつくしに降りるように視線で促している。
つくしは短くため息をつくと箱を降りた。
降りた途端に司に肩を抱かれ、役員フロアの長い廊下を司のオフィスに向かって戻り始めた。
司に密着するといつものいい香りが届く。
するとつくしはなんだか緊張してきた。


「急にどうして会いにきてくれたんだよ。」

「それは、その、」

「寂しかった、とか?」

「そうじゃなくて!」

「違うのかよ。」

「理由は後で説明する。ね、ひとりで歩けるから離して。」

「いやだ。」

「いやだって…」


つくしの顔を見て、つくしに触れて、司にもつくしの香りが届いていた。
それはシャンプーの匂いやつくし自身の甘い香りだったが、偀と話してから抱えていた焦りに似た苛つきを癒してくれるには十分だった。
オフィスに戻り、差し入れの料理の話を聞いて大いに喜び、オフィスのソファーテーブルに料理を並べさせ、つくしと夕食を共にした。
秘書室では菱沼も森川と岡村と共に相伴にあずかった。


「えっと、シェフに指導してもらったけど、あたしが作ったから口に合わなかったら無理しないでね。」

「お前が!? 料理できんのか?」

「うん、できるの。でも司が食べるような高級なものは作ったことないから…」

「関係ねぇよ。お前が作ったんなら美味いに決まってる。」


そう言って料理が取り分けられた皿を受け取った司の顔は先ほど怒鳴り声を上げた本人とは思えないほど和らいでいた。


「差し入れなんて急にどうしたんだよ。」

「うん、朝、食べなかったでしょ? すごく忙しそうだし、ちゃんとお食事をとってないんじゃないかと心配になって。」

「そうか。やっぱりお前は名前の通り、俺に『尽くし』てくれる女だな。」

「な、何言ってるのよ!」

「照れるなって。見たことないもんばっかだけど、美味そうじゃん。」


そう言って満悦した顔で司は初めて食べる『インゲンとジャガイモの豚バラ巻き照り焼き』を口に放り込んだ。








「つくし、ありがとな。」


食事を終え、隣に座らせたつくしを抱き寄せる。
きょうのつくしはサイドの髪を捻ってハーフアップにして、巻いた毛先が肩から胸に落ちていた。
その髪をひと掬いして香りを吸い込むと、今度は耳をくすぐって頬を撫でた。


「あのっ、」


じっと司を見上げていたつくしは、この先の展開を察し、頬を染めて俯いた。


「た、玉子焼きも美味しかった?」

「玉子焼き? ああ、あの黄色いのか。ま、料亭で食べるよりは味が甘かったけど、美味かったぞ。」

「そっか。司はもう少し甘さを抑えた方が好み?」


照れたような顔で上目遣いに伺われ、満腹になって食欲が満たされた後は性欲が湧き上がってくる。
しかしそっちはまさかこんなところで満たすわけにはいかない。
だが、この甘い誘惑を何もしないで手放せば、今夜も深夜まで続く仕事に集中できない。
少し、少しだけ、と自分に言い聞かせた。


「そうだな、甘いのはお前のを食わしてもらうからな。」


そう言ってデザートに匹敵するつくしの甘い唇をチュッと吸い上げた。


「うん、こっちのが甘い。」


カーッと茹で上がったようにさらに真っ赤になったつくしは顔を背けて立ち上がろうしたが、腕を引かれてシートに戻された。
妖しくなり始めた司の眼光がつくし見つめる。


「司、まだ仕事あるんでしょ? 今度こそあたしは帰るから、」

「まだいいだろ。」

「ダメだよ。帰れるのが遅くなるでしょ。」

「じゃ、明日も来るなら解放してやる。」

「明日も!?…いいの?」

「ああ、楽しみにしてる。バランスの良いメシで俺の体調管理してくれよ。」

「わかった。また20時でいい?」

「待ってる。」


それでもやっぱりデザートを味わいたい司は、そのままつくしにフレンチキスを仕掛け、手は辛うじて服の上からその体の線をなぞった。


「ンンッ……もう! 司、仕事場だよ!」

「…だな。」


やっとの思いで司はつくしを放し、つくしの手を取って立ち上がった。


「今夜も遅くなる。先に休んでくれ。」

「…うん、わかった。」


切なげに微笑んだつくしを名残惜しくもう一度抱きしめ、オフィスを後にする背中を見送った。


「ハァ……」


司はデスクチェアに浅く腰掛け、背もたれに頭を預け目を閉じた。
部屋にはつくしの匂いと温もりが残っているようだった。


好きだ…
今となっては彼女以外の妻など考えられない。
父と母が探し出したのが彼女であることは奇跡に近かった。
それを運命というのならば、神に感謝したい。
生涯を共にし、一生、大切にして守っていきたい。
その決意はダイヤモンドよりも硬いが、だが自分たちは世間一般の夫婦ではない。
自由にならないことも多く、その最たることが子供のことだった。
父の言うことはわかる。
シキタリの意義も、言われてみれば至極尤もだ。
しかし…と、司の中に不安が過ぎる。

妊娠出産にもきっとシキタリが存在するだろう。
それを無事に乗り切ったとして、産まれた子が後継者となれば6歳の別れが待っている。
さすがの司も、それが特殊なことであると知っていた。
親友の3人でさえそんな境遇には置かれていなかったからだ。
初等部の頃まで誰かの家の遊びに行くと、必ず母親に出迎えられた。
友人たちは母と同じ棟に住み、食事を共にしていた。
母と暮らす温もり。
その存在を知ったのは友人を通してだった。

きっとつくしもそういう育ち方をしている。
自分の務めについては理解しているだろう。
だが母と子が共に生活するのが当たり前の人生において、わずか6歳で離れなければならない道明寺家のシキタリを受け入れられるのか。
その覚悟もなしに彼女に妊娠を迫るのは、大きな爆弾を抱えさせるようなものだと司は感じていた。

話し合わないと。
その前に自分自身が覚悟を決めないと。


司は前に進むため、残務に集中力を向けた。









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2020.07.04
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