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夜になり、森川より司の帰宅連絡が入った。
障り中のシキタリをもう一度、諭されてから、島田の先導によってつくしは部屋を出た。
長い廊下を東に向かって歩くと、北棟と東棟を隔てる扉の前で立ち止まる。
その扉の鍵を持っているのは遠山と森川だけだ。
島田は重厚なドアに下がっているライオンノッカーと呼ばれる真鍮製のリングを強く打ち付けた。
すると、向こう側から鍵が開く音がして、扉が開かれ、そこにいたのは森川だった。


「ここからは私がご案内します。」


そう言って森川の先導で、つくしと島田はまた歩き始めた。
夏の今は各棟の廊下もエアコンで冷やされているが、それは東棟も例外ではなく、ただ通り過ぎるためだけに空調が整えられていた。
そんな東棟の長い廊下を真っ直ぐに進むと、先ほどよりも大きく重厚なドアが見える。
その彫刻の施されたドアを通り抜けると、そこは初めて足を踏み入れる南棟だ。


「これが南棟ですか。」

「造りは北棟とほぼ同じです。」


廊下を歩きながら格子窓の外を見ると北棟が見えた。
いつもとは違う眺めが物珍しい。
そのうちに一枚のドアの前で森川が立ち止まり、ノックをした。
すると中から返事が聞こえ、森川はドアを開けて二人を誘い入れた。


「旦那様の御召しにて、奥様をお連れいたしました。」


島田が部屋の中央に向かって頭を下げた。
そうしてつくしは初めて司の部屋のリビングに入った。

そこはつくしの部屋と同じ広さだったが、そのシンプルな色遣いにもっと広く感じられた。
そもそも道明寺邸は古い建物だから、あまりにもモダンな家具を置くとチグハグになってしまう。
だからか、司の部屋の家具は色こそ彩度のないモノクロームだったが、革張りのソファの上に置かれているクッションはファブリックで革のハードさが布の柔らかさで中和されている。
ソファの背後には対となる背の高いスタンドライトが置かれ、ソファの低さとのバランスを取っていた。

入り口の向かい側の壁は腰から上の高さが全て窓で、贅沢に使われたシフォンが綺麗なシンメトリーのヒダを作って波打っていた。
窓の下部分は本棚だったり、ガラスのキャビネットになっていて、そこにはトロフィーや盾が見えた。


「つくし!」


司が立ち上がり、つくしに歩み寄った。
その時、部屋の隅に控えた森川と島田もつくしの表情を注視していた。
すると、会いたくないと言っていたつくしは司を認めるとかすかに息を飲み、頬を染め、優しい笑顔になった。
それは押し込めようとしても意のままにならぬ恋をした女の顔だった。
しかしその表情はすぐに引き締まった。


「旦那様の御召しにより参りました。」


そう言ってつくしはお辞儀をした。


「そう硬くなるな。座れよ。」


本当は抱きしめたいという風情の司だったが、つくしが寝込んで以来、シキタリを破ることに慎重になっているのは明らかだった。
つくしをソファに案内し、自身は向かいに腰掛けた。


「体調はどうだ?」

「うん…大丈夫。」

「なんで招き状を寄越さなかった?」

「別に…一週間ぐらいいいかな、と思ったから。」


先ほどの柔和な顔は影を潜め、つくしは終始、司からは視線を外して自分の手許や二人の間にあるガラスのローテーブルを見つめている。
逆に司はつくしの表情の変化を一つも逃すまいと、じっとその顔を見つめた。


「それは一週間ぐらい俺に会わなくても何も感じないってことか?」


その時、初めてつくしは司に顔を上げた。
視線がぶつかり、つくしはまた逸らせた。


「そういう…ことかもね。でもわからない。そんなことまで考えてなかった。今日はそのことを詰問するために呼んだの?」

「いや、そういうわけじゃ、」


コンコン


「失礼します。」


二人の話に割って入ったのは南棟のメイドだ。
ワゴンを押して入ってきた。
メイドは二人の間のローテーブルに細工の美しい3枚の銀の大皿を置いた。


「これ…すごい…」


そこには色とりどり、様々なケーキがミニサイズになって乗っていて、その周りにはエディブルフラワーや造形されたチョコレートが飾りつけられていた。
つくしの表情が一気に明るくなった。


「奥様、お飲み物はいかがなさいますか?」

「あ、えっ、じゃあ紅茶で。」


司の前にはコーヒーが、つくしの前には紅茶が供された。
その間もつくしはケーキに釘付けだ。
最後にメイドはケーキを取り分けるトングをトレイごと司の前に置いて部屋を出て行った。


「今日は食後のティータイムに付き合ってもらおうと思ってな。さあ、どれにする? 俺が取ってやるから何個でも言え。」

「食後のティータイムって、いつもするの?」


キョトンと不思議そうな顔をして、つくしがケーキから顔を上げた。


「甘いもの、好きなの?」


うっ……と、司は言葉をつまらせた。
食後のティータイムなど司がしているわけがないし、甘いものは何であれ大嫌いだ。
だが今夜はつくしを召し出した口実にティータイムを設定し、島田からのアドバイスを受けてつくしが喜ぶだろうとケーキを用意したのだ。
それも数人の有名パティシエにサイズを指定してそれぞれ複数個作らせ、納入させた。
つくしは案の定、先ほどまでの冷めた様子から一転して目を爛々と輝かせてケーキ達を眺めていた。


「俺は好きじゃねぇけど。お前は好きだろ?」

「ん、大好き!」


破顔一笑。
太陽のようなつくしの笑顔が現れた。
その太陽に照らされ、司のみぞおちあたりがじんわりと温かくなった。


「じゃ、食え。最初はなににするんだ?」

「じゃーねぇ、最初は…うーん、選べない。」

「選べ!」

「どれも美味しそうだなぁ。」


並べられた銀の皿にはミニといえども桃やマンゴー、ブルーベリーなど季節のフルーツを使ったものや、チョコレートやラズベリーソースなどで意匠を凝らしたケーキたちが並べられ、つくしにはあの有名ハイジュエリーブティックで見たどんな宝石よりも輝いて見えた。

つくしが選び、司が皿に取り、互いに触れないようにして手渡す。
つくしが口に運んでその美味しさにまた笑顔になり、その顔を見て司も顔が綻ぶ。
他愛ない言葉のやり取りや、軽い言い合い、そして交わす視線は島田と森川から見れば普通の夫婦そのもので、和やかな雰囲気に二人もホッと息をついた。


「もうお腹いっぱい! 残ったの、もったいないね。司が食べないならもらっていい?」

「お前なぁ、貧乏臭ぇこと言うな。食べたくなったらまた作らせりゃいいだろ。」

「もったいない精神は貧乏とは違うわよ。素材や作り手に敬意を払う心意気のことよ。__島田さん、これ明日、いただくのでもらって帰っていいですか?」

「それは、」


つくしに問いかけられた島田の言葉を、やや苛立ったような司の言葉が遮った。


「つくし、何でもかんでも島田に伺いを立てるのはやめろ。」


島田を向いていたつくしが司に向いた。


「え…なに?」

「お前もいい加減に道明寺家の一員としての自覚を持てって言ってんだ。いくら島田がお前の教育係も兼ねてるとは言っても、立場はお前が上なんだぞ。お前は自分がしたいように命じる立場で、島田はその命令を遂行する立場だ。島田、そうだな?」


今度は司が島田に顔を向けた。
島田は軽く頭を下げた。


「左様でございます。」


司は再びつくしに向いた。


「持ち帰ること自体、俺にはありえねぇけど、お前がそうしたいなら命じればいいだけだ。いちいち相談するな。」


その時、つくしは初めて司が自分を見下ろす視線に蔑みを感じた。
それは司が意識的にそうしたのではなく、生まれながらの王者である人間が、自分以外の人間全般に対する隔意とも言うべき潜在意識だったろう。
しかしその視線はつくしの心の奥深くに突き立てられたナイフのようだった。

そして、つくしは思い知るのだ。
司が自分とは相容れない人間であることを。
それは価値観だとか信条だとかいうものとは違う、互いの脳に刷り込まれた決定的な相違だった。

どんなに近づいたと思っても、根幹は理解し合えない。
どんなに好きでもわかり合えない。
この人にはやっぱりあたしじゃない。
もっと感覚の合う人じゃないと、この人は幸せになれない。

今、つくしの心を占めるのはそんな諦観だけだった。
視線を落としたつくしは一度深く呼吸をしてから顔を上げた。


「私はあなたが思うよりもしたいようにさせてもらってるし、決して島田さんの顔色を伺っているわけでもないです。でも気になるなら以後、気をつけます。今夜はご馳走様でした。どれもとても美味しかったです。ありがとうございました。」


それだけを告げて司の返答は聞かずにつくしは立ち上がり、廊下に出るリビングのドアに向かった。


「おい、つくし、」


なんだか急に態度を硬化させたつくしに司は焦った。
つくしを追うように司も立ち上がりドアに向かう。
すると島田が開けたドアの前で立ち止まり、つくしは司に向いて礼をした。


「それでは、今夜はこれで失礼します。おやすみなさい。」

「え…ああ、おやすみ」


その表情は思いの外柔らかく、怒っている風でもなく、拗ねているわけでもないことはわかる。
でもなぜつくしが急にまた心を閉ざしたのかがわからない。
楽しい時間は秒速で過ぎ行き、その温もりを体で感じることなくつくしは帰って行く。
触れられるならば、その肩を掴んで腕の中に閉じ込めて顔中にキスをして、つくしの心を解かせるのに。
焦れた司は堪らずつくしがドアから見切れる寸前に叫んだ。


「明日も!…明日も呼ぶから…また来いよ。」


司の声につくしは振り向き、困ったような顔で薄く微笑むと、また一礼してもう本当に帰って行った。
ボーッとドアを見つめる司に、森川がおもむろに声をかけた。


「旦那様、大丈夫ですか?」

「ん?…ん…なぁ、つくしはなんで…」

「なんでまたお心を閉じてしまったか、ですか?」

「やっぱりお前もそう思ったか。」

「そうですね。あれだけあからさまに態度が変化すれば気づきますね。」

「ケーキ、そんなに持って帰りたかったのか?」


ハァ…この夫婦はどうしてこう…鈍感揃いなんだ…

森川は内線でメイドに下げに来るように言いつけてからテーブルの上を片付けはじめた。
森川がそうしていてもまだ突っ立っている司に話しかけた。


「旦那様はどうして奥様にあんなことを言ったんですか?」

「あんなことって…島田のことか?」

「そうです。」

「それは…」


それは、なぜだっただろう。
つくしが招き状をくれないのは、ああして島田に相談して止められたからないんじゃないかとか、つくしがなんでも島田を頼るのが気に入らないとか、もっと道明寺司の妻の自覚を持って欲しいとか、言葉にしようとするとどれも幼稚に思えて司は口をつぐんだ。


「…なんにせよ、奥様は庶民だったからというだけではなく、人に命令などできるようなタイプの女性ではないようですし、未知の世界に嫁いでこられてからずっとお側で仕えている島田を頼りにするのは当然のことです。それを旦那様は理解して差し上げてください。」

「頼るなら俺だっているだろ…」


そう拗ねるように呟いた司を寝室に追い込むようにして森川はその背中を押した。


「はいはい、旦那様を見ていると恋の甘酸っぱさが蘇りますね。ここから先はゆっくりお風呂に浸かりながらご自分でお考えになってください。」


司はチラリと森川を振り向き、乗り気ではないといった足取りでバスルームに向かって行った。




***




つくしは部屋に戻って入浴し、今はドレッサーの前に座って島田に髪を梳かれていた。


「島田さん、シキタリっていうのはそんなに簡単に廃止したり作ったりできるものなんですか?」

「簡単ではございませんが、何にせよ時代に合わせて柔軟に対応すべきものだとは思います。時代時代のご当主とそのご家族のための決まり事ですから、シキタリありきで人が犠牲になっては本末転倒です。」

「それは、そうですよね。」

「旦那様が仰ったように明日も御召し状が届くみたいですね。…奥様は嬉しくはありませんか?」

「私が? 嬉しいってそれは呼ばれてってこと?」

「はい。旦那様があんなに奥様に会いたがっておられるのをどう感じてらっしゃるのか、と。」

「それは……有り難いことだとは思ってます。」


この時、つくしに少しでも自惚れの心があったなら、司も自分と同じ気持ちなのではないかという想像力が働いたかもしれない。
しかしつくしにとって司はあまりにも自分とは隔絶された存在で、自惚れの対象にはなり得なかった。

それに、会えたときの喜びは離れるときの寂しさを増幅させたし、これが今後、毎月、いや、もしかしたら永遠にそんな時が来るかもしれないと思えば、いちいち一喜一憂せずに会わないことに慣れなければ、という思いも強かった。


しかし司のなんだかんだと口実を作った御召し状はつくしの障りが明けるまで届けられ、つくしは毎晩、司の部屋を訪ねることになった。









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2020.03.29
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