森川の予想より随分早く帰宅した司は、先程からずっと文句を言っていた。
「ったく、あんな女、どこで見つけてきたんだ。何の役にも立たなかったぞ。」
「左様でございますか。申し訳ありません。」
「どっかの娼婦じゃないよな?」
「滅相もありません。信頼できる筋から紹介された身元のしっかりした女性です。離婚歴のある方でしたので、初夜は済まされておりますし。」
「フン、次はもっと身持ちの堅いのを用意しろ。」
「かしこまりました。明日にはご用意できますので、またあの部屋にお越しください。」
「わかった。」
司はリビングのソファから立ち上がり、書斎に行こうと部屋を出た。
南棟の廊下の格子窓から中庭を挟んで数十メートル離れた北棟が見える。
明かりがついている部屋につくしがいるはずだった。
確かリビングはあそこだ。
レースのカーテンが下されただけの窓から部屋の中がぼんやりと伺える。
つくしがいた。
黒髪を下ろし、ティーカップらしきものを口に運ぶのが見えた。
もっとよく見たいがあっちが窓辺にでも寄ってくれない限りこれ以上は難しい。
辛うじて認められるのは服装くらいだ。
白いブラウスに、スカートはブルーだ。
布に包まれたその身体が不意に記憶に蘇った。
白い肌、柔らかな膨らみ、桃色の頂き、指先でかき分けた下生え…
思い出すとカッと血が滾った。
持て余す熱を振り払うように司は書斎に入っていった。
***
次の日も司はグランド・メープル・東京のジュニアスイートにいた。
目隠しをされた今夜の女は、つくしと同じストレートの黒髪をして、華奢な身体に大きな乳房を持っていた。
一見、魅惑的なそのボディだったが、やはりキスをする気は起きず、あの香りもなかった。
もうそれを求めるのは諦め、とにかく吐き出そうとデコルテを過ぎてブラを剥ぎ取った。
たわわな乳房が晒され、ブルンと戦慄いた。
司の大きな手にも余るほどのそれは柔らかさと同時に重さがあった。
頂きを口に含んだ時、ふと、自分が仔牛にでもなったような気分になって、また急激に冷めていった。
「旦那様の好みは難しいですね。」
「お前が用意するのが変なのばっかりなんだよ。」
「普通なら喜んでいただけると思うのですがねぇ。」
食後のコーヒーを給仕しながら森川が呟いた。
「あとひとりだけ試してみる。」
「では明日。」
これでダメなら渡りを待つしかない。
司はコーヒーを飲み終えると、また廊下に出た。
今夜は満月が高く上っていて、北棟を照らしている。
リビングに目をやろうとして、明かりの消えた寝室のバルコニーに目が止まった。
人影?と思ったらつくしだった。
携帯電話を耳に当てている。
どうやら誰かと話しているようだ。
うんうんと頷いたり、時折、笑ったり、遠目でも豊かな表情を見せているのがわかった。
そして風が吹くたびに髪が揺れ、月明かりがその顔を照らした。
誰と話しててあんなに楽しそうなんだ?
まさか男じゃないよな…
いや、親父が選んだ女だ。
身辺調査は徹底したはずだ。
あいつは俺だけの女だ。
早くまた抱きたい。
あいつの肌を感じたい。
あの大きな瞳が潤む様が見たい。
あの香る肌と美味い唇を味わいたい。
見つめているとつくしの顔がこちらに向いた。
そして司の姿を認めると、またフイッと顔を背けて、寝室に入っていった。
司は廊下から部屋に戻り、森川を呼び止めた。
「森川、」
「はい。」
「もう女はいい。渡りを待つ。」
「そうですか、かしこまりました。」
“ ふさわしい女と結婚すれば愛情が芽生える ”
先祖が繰り返してきた営みが自分にも訪れるのはいつのことなのか。
ひと月後か、1年後か、10年後なのか。
いまだ理解できない女への愛情というものを、早く感じてみたいと司は初めて思った。
***
初夜から1週間が経過し、やっとこの日が来た。
今夜から渡りが解禁される。
今日を境にもういつでも好きな時に渡れるようになる。
毎日だって可能だった。
「ご機嫌でございますね。」
司の朝の支度をしながら、森川は上機嫌な主人にチラッと視線を走らせた。
今朝は起こさなくても起きてきたし、朝食もさっさと済ませ、いつもより30分も早く朝の支度も終えようとしている。
「そうか? いつもと変わりないぞ。」
いやいや、全然違いますって。と思いながら、森川の口元には笑みが浮かんだ。
どうなることかと思った司と庶民の妻との結婚は、とりあえずは順調な滑り出しだと言ってよかった。
なによりもこの主人が妻を気に入った様子で、愛情が芽生えるのも時間の問題だと森川は思った。
出社した司はいつもよりも集中して業務をこなしていった。
第一秘書の菱沼は、注意力散漫だった先週に比べて別人のように回転する司を見て、結婚が順調なのだと安堵した。
19時には今日中に決済しなければならない案件を全て追え、司は帰路に着いた。
***
つくしは朝からため息ばかりをついていた。
島田から幸せが逃げると諭されても、そんなものはとっくに逃げていったと心の中で反論していた。
今夜から渡りが解禁になる。
早速、朝一番に森川から連絡があったと島田が教えてくれた。
初めての行為の直後に感じた嫌悪感は、冷静になってあの夜を思い出すたびに島田が言うように男の本能がなせる暴走だと解釈することでかなり薄まっていた。
司は途中までは優しかったし、つくしを気遣ってもくれていた。
だから行為の後の豹変が、26まで我慢していたことに起因するなら仕方ない部分もあるだろうと、ある意味、つくしのお人好しが自身の傷を癒す手助けになっていたのだ。
しかしだとしても、またあの苦痛を繰り返すかもしれないと思うと気が重かった。
初夜の翌日、日中は痛みとダルさで動けず、ずっとベッドで過ごした。
その翌日からはこれまで通りのレッスンが再開された。
しかし離れに住んでいた時は外部に出向いていたレッスンも、結婚すれば講師が来てくれて、全レッスンが屋敷内で完結してしまう。
どこかに出かけて鬱々とする気分を振り払いたかったが、つくしはこの1週間、一歩も屋敷の外に出ていなかった。
「奥様、気分転換にお散歩でもなさっては?」
邸が巨大なら、敷地も広大な道明寺屋敷は、庭を歩くだけで確かに外の空気は存分に吸える。
せめてそれだけでもこの鬱屈を払ってくれるなら、とつくしは島田の言葉に従って庭の散策に出た。
帽子を被り、パンツスタイルにスニーカーを履き、少しだけ本来の自分に戻れる。
こんな時間が今のつくしの癒しだ。
北棟は確かに本館の北側に位置するが、決して日当たりが悪いというわけではない。
居住空間は南側に向いているし、正面の門扉に面している南棟よりも広い庭を誇っている。
というか、北側は敷地の終わりが見えない。
庭の向こうには雑木林と思しき樹々が生い茂っていた。
あまり遠くへ行けば遭難でもしそうで、つくしは西側の庭を散策することにした。
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2020.02.24